石巻のカルチャーを牽引するひとつの通りがあります。ライブハウスや現代アートのギャラリー、近年は劇場やクラフトビールの醸造所がオープンするなど、時代とともにその内容を変えながら、文化を発信し続ける通称文化通りと呼ばれるこのストリートのルーツについて解き明かしていきます。
1.「文化通り」のはじまり
この通りが現在のような通りに整備される最初のきっかけは、明治20年の本町大火後と言われている。当時は「裏町新道」と呼ばれ、寿福寺につながる道に由来するエリア「寿町」と日和山に向かう坂の下「坂下町」を結び、現在のアイトピア通りの両側に広がる町「裏町」のさらに裏側ということで、この一帯は「裏町ウラ」と呼ばれていた。
新道が開通する以前、江戸幕末の時代には、永厳寺向かいの三角形の土地には、長州藩士吉田松陰が東北遊歴の途中、石巻に立ち寄り宿泊した「旧粟野邸」(旧日活パールシネマ→現在のISHINOMAKI HOP WORKSの場所)と庭園「合歓園」があった。(写真1、2)
写真1 吉田松陰が幕末に宿泊した「旧粟野邸」を示す看板
写真2 旧粟野邸の敷地に戦後建てられた映画館「旧日活パールシネマ」は現在、イシノマキ・ファームが運営するブルワリー「ISHINOMAKI HOP WORKS」に
2.劇場ストリートのランドマーク
「文化通り」の名称の直接の由来は、開運堀南側の「石切横丁」(現在の広小路)と、この通りが交わる角地に、清野太利右衛門(酒造業などを起こした商人、後述)によって大正15年に建てられた「歌舞伎座」が、昭和の時代に「文化劇場」と呼ばれる劇場になっていたことである。(写真3)しかし、この通りが劇場ストリートとなったルーツはさらに時代をさかのぼり、明治22年「石湊座」(明治30年代「白喜座」に改称)という芝居小屋が建てられたことに始まる。
また、裏町のウラ側という位置づけで始まったこの通りであるが、七十七銀行石巻支店(写真4)が立町通りとの交差点に移転し開設されたことや、明治後期(明治30年代には既に営業していた)に開かれた坂下町の酒造店「清野屋」(清野太利右衛門/銘酒「清ノ玉」、別製「日和山」→「日和正宗」等を醸造/写真5)が両端のランドマークとなり、特徴的な通りとなっていった。
写真3 文化通りの由来となった「文化劇場」周辺の戦後の風景
(出典:亀山幸一撮影・編集「グラビア石巻」、1981年)
写真(オプション)昭和30年代の文化通りの鳥瞰写真
(出典:SUW2019「昭和の石巻」アーカイブ →元の出典不明)
写真4 広小路付近から移転し、開設された七十七銀行石巻支店
(出典:「石巻市街全図」、宮城県図書館所蔵、1928年)
写真5 大正12年の清野醸造場
(出典:「石巻商工名鑑」、石巻市立図書館所蔵、1923年)
3.大正から昭和初期のまちなみ風景
大正時代から昭和初期にかけて、戦後商店街の中核を担った店舗群の開業ラッシュとなった。昭和初期の地図には、芳生堂菓子舗(写真6)、柏屋洋品店、阿部金商店、沼崎歯科、今藤(家具)、本の湯、青沼(ラジオ)、阿部米店、中央写真館、水野洗濯所(クリーニング)などの店舗名が見られる。(図1)
青沼ラジオがあった場所は現在「青沼ビル」となり、2012年に復興支援「東北ライブハウス大作戦」によって「石巻Blue Resistance」がオープンした。(写真7)
写真6 大正7年にこの通りに移転オープンした芳生堂菓子舗(写真は昭和15年)
(出典:橋本晶、石垣宏編、「写真集明治大正昭和石巻」、国書刊行会、1980年)
写真7 石巻Blue Resistance
図1 昭和3年の裏町ウラ周辺の地図
(出典:「石巻市街全図」、宮城県図書館所蔵、1928年)
4.戦後の文化・商業の復興
「文化通り」のルーツである文化劇場は戦後映画館「文化映画劇場」となり、昭和30年に清野酒店の裏側にオープンした映画館「日活パールシネマ」(写真8、9)とともに、通りを特徴づける場所となっていた。
昭和30年頃「寿町通り」と呼ばれるようになった商店街北側には、石巻商工会議所ビルが建築された。スクラッチタイルとファサードのコンポジションが印象的な洋館(元:石巻商工信用組合、現:銀河/カフェあぷりこっと)なども建てられ、独自のデザインは今も通りの風景を特徴づけている。(写真10)寿町通り北側エリアでは、柏屋とサルコヤという二つの玩具店や、靴屋、洋品店など服飾関連の店舗群が商店街を特徴づけていた。
一方、ピッコラパーク通り/喜楽街通りとの交差点から広小路交差点までのエリアでは、戦後から昭和40年代にかけて「大王(ターワン)」「老正興」「南華園」「新華楼」など、石巻市民に長く親しまれた中華料理店などの飲食店が増えていった。(写真11)
写真8 日活パールシネマ周辺(2011年5月撮影)
写真9 日活パールシネマに保存されていた日活映画の宣伝幟(2011年5月撮影)
写真10 旧「石巻商工信用組合」/現「銀河/カフェあぷりこっと」の建物
(2011年5月撮影)
写真11 1980年代初めの寿町通り
(出典:亀山幸一撮影・編集「グラビア石巻」、1981年)
5.震災後、商店街が復興支援活動の拠点として活躍
2011年の東日本大震災では、商店街店舗の多くが浸水被害を受けたため、商店主と各地から集まったボランティアが協力し、がれきの片付けを行った。店舗再開や再建に向けた流れの中で、被災した寿町通りの空き店舗のいくつかが、各地から集まったボランティアと「一般社団法人ピースボート災害支援センター」をはじめとする支援活動組織の拠点となり、再開した店舗と一体となってまちなかの復興初動期を支えた。震災後初の開催となった「石巻川開き祭り」では、これらの活動拠点周辺は、ボランティアと地域の子ども達で大きな賑わいを生み出した。(写真12)また、旧石巻商工会議所ビルでは、震災後の数年間は、まちなか全体の復興に関する会議や住民・商店主らの再建に関する集まりが連日開かれた。旧「清野ふとん店」(現在のシアターキネマティカの建物)では、「千人風呂」という無料入浴施設を運営してきた支援グループが気軽に訪れることのできる場所としての「風呂」の役割を活かしたコミュニティスペース「スペース千人風呂」を開設した。
写真12 2011年、震災後初めて開催された「石巻川開き祭り」での寿町通りの風景
6.ディープカルチャーを発信するメインストリートに
震災から10年が経過し、震災直後から開設され、復興の初動期に大きな役割を果たした商店街のコミュニティスペース群は、石巻在住のアーティストやクリエイター達によって開設されたアートスペースやクリエイティブ拠点が集まる界隈に転換しつつある。(図2)2017年から隔年で開催されている「リボーン・アート・フェスティバル(RAF)」や、2012年から毎年開催されている「石巻一箱古本市」などをきっかけとして、この通りにつながるいくつかのスペースが連携してイベントを開催したり、本や演劇、現代アートなどでつながるコミュニティが生まれたりしている。
2022年には、日活パールシネマ跡地の一角に、演劇と映画を上映する劇場「シアターキネマティカ」と、一般社団法人「イシノマキ・ファーム」が運営するブルワリー「ISHINOMAKI HOP WORKS」の二つの拠点がオープンした。
歌舞伎座や映画館から始まった文化通りの未来は、さまざまなジャンルのディープな文化を発信する場所が映し出してくれるのではないだろうか。
写真13 一箱古本市や「石巻ディープカルチャーストリート」などで拠点となっている街のでんきやさん「パナックけいてい」横の路地の奥にあるアートスペース「石巻のキワマリ荘」
写真14 守長商店の2階に開設されたスペース「Art Drug Center」
写真15 「スペース千人風呂」と「シアターキネマティカ」として活用されてきた「旧清野ふとん店」の震災後の様子
(2011年6月撮影)
写真16 「シアターキネマティカ」界隈の現在
写真17、18 2022年秋に開催された「石巻ディープカルチャーストリート」の様子
図2 震災後から現在にかけてまちなかに集積したクリエイティブ拠点
参考文献
・「石巻町勢要覧付録 石巻商工名鑑」、1923年
・交通案内社、「石巻市街全図」、宮城県図書館所蔵、1928年
・晴皐社、「石巻港明細図」、1931年、(鈴木紀男氏所蔵、「石巻アーカイブ」協力)
・宮城産業連盟、「石巻市街全図」、1933年、(菊田貞吾氏所蔵、「石巻アーカイブ」協力)
・石巻商工会議所、「昭和二十五年版 商工人名録」、1950年
・邊見清二、「古きをたずねて未来を築く よこ町の履歴書/第8回裏町その1~第17回裏町その10」、月刊ひたかみ、1979年
・橋本晶、石垣宏編、「写真集明治大正昭和石巻:ふるさとの想い出」、国書刊行会、1980年
・亀山幸一撮影・編集、「石巻 グラビア」、亀山印刷、1981年
・東京工業大学真野研究室「石巻まちあるきマップ 再開店舗・活動ガイド」、2011年
・「石巻アーカイブ」地図研究会、「石巻古地図散歩」、石巻日日新聞社出版部、2017年
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